1951年フィンランド・ヘルシンキ生まれ。アレンの初WRCは1973年1000湖ラリー、ボルボ142で2位フィニッシュ。その結果をみたフォードからRACラリーへの出場を打診されフォード・エスコートをドライブし3位に。74年からフィアットと契約しWRCに出場。82年にはランチアへ移籍し、ランチア037ラリー、デルタS4をドライブ。86年にはユハ・カンクネンとチャンピオンを争うもサンレモの優勝が覆り、シリーズ2位で終えた。グループA時代に入ると87年から89年にランチア・デルタHF 4WD、デルタインテグラーレでWRCに出場。90年からスバル、92年からトヨタで出場。92年を最後に実質第一線を退く。最後のWRCは2001年フィンランドにフォード・フォーカスWRCで出場、16位でフィニッシュ。 アレンはWRCで19勝を挙げているが、WRCでのドライバーチャンピオン獲得が無かったため「無冠の帝王」と呼ばれている。しかしWRCドライバーズ選手権の前身となるFIAラリードライバーズカップを1978年に獲得しているので、決して無冠では無かった。
アレンがモータースポーツに興味を持ったのは、アレンの父がアイスレーシングのチャンピオンだったからだ。1969年に父親が用意してくれたルノーR8ゴルディーニでフィンランド国内のラリーに出場しはじめると、すぐに勝利を重ねた。するとフィンランドでサンビーム・インプを輸入しているディーラーから車両を提供され、インプでシーズン後半を走ることになった。1970年の後半からはオペル、71年からはボルボ142でフィンランド選手権を中心に出場した。73年1000湖ラリーではボルボ142で2位に入ったことがフォードの目にとまり、エスコートをドライブすることになった。RACでは期待どおり3位フィニッシュ。この結果74年シーズンに向けて、フォードと共にフィアットからも声が掛かったのだ。
アレンは条件の良かったフィアットで74年シーズンを走ることにした。当時のフィアットはWRCに124アバルトラリーを投入したばかり。この年はフィアットが出ないイベントではエスコートで数戦出場した。
この頃からアレンのコ・ドライバーを務めたイルッカ・キビマキがコンビを組むようになったのは、キビマキの兄がアレンの友人だったからだ。アレンはラリー中に神経質になり、アクセルを踏み込みがちになる。その時キビマキはペースノートを読む際に「マルク、もっと落ち着いてゆっくり行け!」と声を掛けると、アレンも落ち着きを取り戻すのだという。
75年はフィアット124アバルトでの出場だったが、フィンランド選手権数戦と1000湖ラリーには、日産バイオレットで出場した。76年からはいよいよフィアット131アバルトラリーでWRCに出場。当時はフィアットグループのランチアが、WRCにストラトスを投入していたが、アレンがストラトスに乗ることができたのは78年の終盤になってからだった。
82年になるとランチア037ラリー、85年からデルタS4でWRCに出場することになった。フィアットやランチアは、WRCでマニュファクチャラーズ選手権を獲得するのにあらゆる力を注いだ。
86年のWRCはアレンがタイトルを獲得できる大きなチャンスが訪れた。プジョーとランチアがタイトル争いを繰り広げると共に、ドライバーもカンクネン、サロネンのプジョー勢とアレンをエースに、各イベントのスペシャリストを投入していた。第11戦サンレモではアレンが総合優勝。出場していたプジョー205T16 E2のサイドスカートが主催者により違法部品と認定され失格。プジョーはFIAに失格の取り消しを提訴。判決がでるまでにアレンはRACで2位、アメリカで優勝し、カンクネンを上回り暫定チャンピオンを獲得。しかしFIAはプジョーの訴えを認め、またサンレモのポイントをすべて取り消しにしたことでアレンのチャンピオンは取り消しに。
その後もアレンはランチアで走るも、88年の1000湖で優勝したことが、結果最後のWRC優勝となった。
その後90年にはスバルがプロドライブの運営によりWRCへ注力することになった。その際白羽の矢が立ったのがアレンだった。この移籍はWRC界に衝撃を与えた。それは15年間もフィアットグループで走り「フィアットと結婚した男」、と言われていたアレンがフィアットを離れたからだ。
スバルに移籍したアレンは、レガシィのエンジン馬力には物足りなかったのか常に「モアパワー」をチームに訴えていた。90年のWRCではリタイアが続いたレガシィだったが、91年には上位フィニッシュを続けた。
そのなか打倒ランチアのために、サインツと共にWRCを戦えるドライバーを探していたTTEから92年のオファーを受けたアレンは、それを受け移籍。トヨタにとり新型セリカGT-FOUR ST185の開発と熟成は急務で、アレンにはその役目も担っていた。92年はサインツがドライバーズタイトルを獲得したが、目標のマニュファクチャラーズタイトルは、ランチアに奪われたままだった。
93年にはトヨタとスバルから数戦のスポット参戦したのみで、第一線を退いた。
回数 | 年 | イベント名 | コ・ドライバー | マシン |
1 | 1975 | ポルトガルラリー | イルッカ・キビマキ | フィアット124アバルトラリー |
2 | 1976 | 1000湖ラリー | イルッカ・キビマキ | フィアット131アバルト |
3 | 1977 | ポルトガルラリー | イルッカ・キビマキ | フィアット131アバルト |
4 | 1978 | ポルトガルラリー | イルッカ・キビマキ | フィアット131アバルト |
5 | 1978 | 1000湖ラリー | イルッカ・キビマキ | フィアット131アバルト |
6 | 1978 | サンレモラリー | イルッカ・キビマキ | ランチア・ストラトスHF |
7 | 1979 | 1000湖ラリー | イルッカ・キビマキ | フィアット131アバルト |
8 | 1980 | 1000湖ラリー | イルッカ・キビマキ | フィアット131アバルト |
9 | 1981 | ポルトガルラリー | イルッカ・キビマキ | フィアット131アバルト |
10 | 1983 | ツール・ド・コルス | イルッカ・キビマキ | ランチア037ラリー |
11 | 1983 | サンレモラリー | イルッカ・キビマキ | ランチア037ラリー |
12 | 1984 | ツール・ド・コルス | イルッカ・キビマキ | ランチア037ラリー |
13 | 1986 | オリンパスラリー | イルッカ・キビマキ | ランチア・デルタS4 |
14 | 1987 | ポルトガルラリー | イルッカ・キビマキ | ランチア・デルタHF4WD |
15 | 1987 | アクロポリスラリー | イルッカ・キビマキ | ランチア・デルタHF4WD |
16 | 1987 | 1000湖ラリー | イルッカ・キビマキ | ランチア・デルタHF4WD |
17 | 1988 | スウェディッシュラリー | イルッカ・キビマキ | ランチア・デルタHF4WD |
18 | 1988 | 1000湖ラリー | イルッカ・キビマキ | ランチア・デルタインテグラーレ |
19 | 1988 | RACラリー | イルッカ・キビマキ | ランチア・デルタインテグラーレ |