「無冠の帝王」と呼ばれたアレン

マルク・アレン

マルク・アレンのイメージ
ランチア時代、1984年のマルク・アレン。037ラリーで出場していた頃だ

マルク・アレン – Markku Alen

1951年フィンランド・ヘルシンキ生まれ。アレンの初WRCは1973年1000湖ラリー、ボルボ142で2位フィニッシュ。その結果をみたフォードからRACラリーへの出場を打診されフォード・エスコートをドライブし3位に。74年からフィアットと契約しWRCに出場。82年にはランチアへ移籍し、ランチア037ラリー、デルタS4をドライブ。86年にはユハ・カンクネンとチャンピオンを争うもサンレモの優勝が覆り、シリーズ2位で終えた。グループA時代に入ると87年から89年にランチア・デルタHF 4WD、デルタインテグラーレでWRCに出場。90年からスバル、92年からトヨタで出場。92年を最後に実質第一線を退く。最後のWRCは2001年フィンランドにフォード・フォーカスWRCで出場、16位でフィニッシュ。 アレンはWRCで19勝を挙げているが、WRCでのドライバーチャンピオン獲得が無かったため「無冠の帝王」と呼ばれている。しかしWRCドライバーズ選手権の前身となるFIAラリードライバーズカップを1978年に獲得しているので、決して無冠では無かった。

アレンがモータースポーツに興味を持ったのは、アレンの父がアイスレーシングのチャンピオンだったからだ。1969年に父親が用意してくれたルノーR8ゴルディーニでフィンランド国内のラリーに出場しはじめると、すぐに勝利を重ねた。するとフィンランドでサンビーム・インプを輸入しているディーラーから車両を提供され、インプでシーズン後半を走ることになった。1970年の後半からはオペル、71年からはボルボ142でフィンランド選手権を中心に出場した。73年1000湖ラリーではボルボ142で2位に入ったことがフォードの目にとまり、エスコートをドライブすることになった。RACでは期待どおり3位フィニッシュ。この結果74年シーズンに向けて、フォードと共にフィアットからも声が掛かったのだ。

アレンは条件の良かったフィアットで74年シーズンを走ることにした。当時のフィアットはWRCに124アバルトラリーを投入したばかり。この年はフィアットが出ないイベントではエスコートで数戦出場した。

この頃からアレンのコ・ドライバーを務めたイルッカ・キビマキがコンビを組むようになったのは、キビマキの兄がアレンの友人だったからだ。アレンはラリー中に神経質になり、アクセルを踏み込みがちになる。その時キビマキはペースノートを読む際に「マルク、もっと落ち着いてゆっくり行け!」と声を掛けると、アレンも落ち着きを取り戻すのだという。

75年はフィアット124アバルトでの出場だったが、フィンランド選手権数戦と1000湖ラリーには、日産バイオレットで出場した。76年からはいよいよフィアット131アバルトラリーでWRCに出場。当時はフィアットグループのランチアが、WRCにストラトスを投入していたが、アレンがストラトスに乗ることができたのは78年の終盤になってからだった。

1977年RACラリーに出場したフィアット131アバルト。131アバルトで出場したRACはいつもトラブルでリタイアだった

82年になるとランチア037ラリー、85年からデルタS4でWRCに出場することになった。フィアットやランチアは、WRCでマニュファクチャラーズ選手権を獲得するのにあらゆる力を注いだ。

86年のWRCはアレンがタイトルを獲得できる大きなチャンスが訪れた。プジョーとランチアがタイトル争いを繰り広げると共に、ドライバーもカンクネン、サロネンのプジョー勢とアレンをエースに、各イベントのスペシャリストを投入していた。第11戦サンレモではアレンが総合優勝。出場していたプジョー205T16 E2のサイドスカートが主催者により違法部品と認定され失格。プジョーはFIAに失格の取り消しを提訴。判決がでるまでにアレンはRACで2位、アメリカで優勝し、カンクネンを上回り暫定チャンピオンを獲得。しかしFIAはプジョーの訴えを認め、またサンレモのポイントをすべて取り消しにしたことでアレンのチャンピオンは取り消しに。

その後もアレンはランチアで走るも、88年の1000湖で優勝したことが、結果最後のWRC優勝となった。

グループB時代には037ラリーでサファリに出場。ここでは4位、次戦コルシカでは優勝した
マシンはデルタS4。このアクロポリスではリタイア。次のニュージーランドでは2位にはいり、チャンピオン争いに残った

その後90年にはスバルがプロドライブの運営によりWRCへ注力することになった。その際白羽の矢が立ったのがアレンだった。この移籍はWRC界に衝撃を与えた。それは15年間もフィアットグループで走り「フィアットと結婚した男」、と言われていたアレンがフィアットを離れたからだ。

スバルに移籍したアレンは、レガシィのエンジン馬力には物足りなかったのか常に「モアパワー」をチームに訴えていた。90年のWRCではリタイアが続いたレガシィだったが、91年には上位フィニッシュを続けた。

ランチア後はスバルでWRCに出場。そのためたびたび来日し開発テストを行なっていた

そのなか打倒ランチアのために、サインツと共にWRCを戦えるドライバーを探していたTTEから92年のオファーを受けたアレンは、それを受け移籍。トヨタにとり新型セリカGT-FOUR ST185の開発と熟成は急務で、アレンにはその役目も担っていた。92年はサインツがドライバーズタイトルを獲得したが、目標のマニュファクチャラーズタイトルは、ランチアに奪われたままだった。

93年にはトヨタとスバルから数戦のスポット参戦したのみで、第一線を退いた。

マルク・アレン WRC勝利の記録

回数イベント名コ・ドライバーマシン
11975ポルトガルラリーイルッカ・キビマキフィアット124アバルトラリー
219761000湖ラリーイルッカ・キビマキフィアット131アバルト
31977ポルトガルラリーイルッカ・キビマキフィアット131アバルト
41978ポルトガルラリーイルッカ・キビマキフィアット131アバルト
519781000湖ラリーイルッカ・キビマキフィアット131アバルト
61978サンレモラリーイルッカ・キビマキランチア・ストラトスHF
719791000湖ラリーイルッカ・キビマキフィアット131アバルト
819801000湖ラリーイルッカ・キビマキフィアット131アバルト
91981ポルトガルラリーイルッカ・キビマキフィアット131アバルト
101983ツール・ド・コルスイルッカ・キビマキランチア037ラリー
111983サンレモラリーイルッカ・キビマキランチア037ラリー
121984ツール・ド・コルスイルッカ・キビマキランチア037ラリー
131986オリンパスラリーイルッカ・キビマキランチア・デルタS4
141987ポルトガルラリーイルッカ・キビマキランチア・デルタHF4WD
151987アクロポリスラリーイルッカ・キビマキランチア・デルタHF4WD
1619871000湖ラリーイルッカ・キビマキランチア・デルタHF4WD
171988スウェディッシュラリーイルッカ・キビマキランチア・デルタHF4WD
1819881000湖ラリーイルッカ・キビマキランチア・デルタインテグラーレ
191988RACラリーイルッカ・キビマキランチア・デルタインテグラーレ

LEGEND CAR

レジェンド・カー

1979年のフランクフルトモーターショーに、1.3~1.5ℓのFF小型2ボックスカーとして発表されたランチア・デルタ。73年末から中東戦争…

1980年3月のジュネーブモーターショーのアウディブースで「クワトロ」が発表され、11月にはアウディ・クワトロとして発売された。このクワト…

1960年代よりモータースポーツ活動を行なっていた三菱は、海外ラリーにも目を向け、67年のオーストラリア・サザンクロスラリーに出場する。当…

蘇ったアバルトのGTラリーカー

フィアット・アバルト124ラリー

1966年トリノショーにフィアットからスポーツカーが発表された。それがフィアット124スポーツスパイダーだった。ピニンファリナのデザインに…

日本車初のWRC優勝マシン

日産フェアレディ240Z/ダットサン240Z

日産自動車は1962年、国産本格的スポーツカー「ダットサン・フェアレディ」を発表。以降毎年改良を加え、国内レースや海外ラリーに出場してスポ…

1981年、タルボ・サンビームロータスでWRCに出場してタルボのマニュファクチャラーズタイトル獲得に貢献したジャン・トッドはコ・ドライバー…

1963年、鋼管バックボーンのフレームにFRP製ボディをかぶせ、ルノー製エンジンを搭載したGTカーがフランスに誕生した。これがアルピーヌ・…

70年代WRCに誕生したエボリューションモデル

フォード・エスコートRS 1800 Mk.2

1975年フォード・エスコートは、第2世代目の新型エスコートRS 1800 Mk.2へとモデルチェンジした。成功した初代エスコートRS16…

OFFICIAL SNS

フォーラムエイト・ラリージャパン2022公式SNS