勝田貴元選手、ポディウムフィニッシュおめでとう!

WRC初の女性ドライバー優勝

ミシェル・ムートン

ミシェル・ムートンのイメージ
アウディ・クワトロのコクピットのムートン。ラリー界に嵐をもたらしたターボ4WDラリーカーを乗りこなした女性ドライバーだ

ミシェル・ムートン – Michele Mouton

1951年フランス・グラース出身。ドライバーとしての初WRC出場は1974年のツール・ド・コルスにアルピーヌ・ルノーA110 1800で出場、12位でフィニッシュ。1976年にはシーズン序盤にアルピーヌ・ルノーA310に換える。モンテカルロ、サンレモ、ツール・ド・コルスのWRC3戦に出場。77年中盤まではポルシェ911、終盤からフィアット131アバルトでラリー活動を行なう。フィアットでの参戦は80年まで。81年からアウディに移籍し、クワトロをドライブし、サンレモで初優勝。82年は3勝を挙げる。以降85年までアウディ、86年にはプジョー205T16E2をドライブ。この年現役引退。その後レース・オブ・チャンピオンズの主催、FIAのスポーツ委員として活動中。

ミッシェル・ムートンがラリーに興味を持ったきっかけは、地元の友人がツール・ド・コルスに出場するためのトレーニングに付き合ったことだった。ムートンは14歳の頃から父親の車を自宅周辺で乗っていたという。社会人になるとムートンは、仕事で地元グラースとグルノーブルまで(片道約290キロ)、ルノー4でたびたび往復することがありドライビングの楽しみを覚えた。ルノー4での往復時には、徐々に時間を短縮することに興味が移っていった。こうして、ムートンがラリーを始めるまでに時間はかからなかった。

ムートンが最初に出たラリーは1973年のモンテカルロラリーだ。WRC最初のイベントに、ジャン・タイービのプジョー304のコ・ドライバーとして出場したのだ。しかしこの年のモンテカルロは豪雪に見舞われ、ブルゼのSSが通過できなくなってしまった。トップチームは切り抜けたものの、アマチュアチームは通過できず失格となってしまった。

ムートンはタイービのコ・ドライバーを数戦務めた後、1973年後半より父親が買ってくれたアルピーヌ・ルノーA110でラリーに出場しはじめた。主にフランス国内ラリーに出場を続けたムートンはトップ10圏内でフィニッシュするようになった。74年のツール・ド・コルスではカーナンバー65、グループ3クラスの最終ナンバーだった。ライバルは同じアルピーヌ・ルノーやポルシェ911が9台。その中でムートンは総合12位、グループ3クラスでは1位でフィニッシュした。翌75年のWRCツール・ド・コルスでは7位。76年のモンテカルロラリーでは11位でフィニッシュ。マシンをアルピーヌ・ルノーA310に換えると、フランスラリー選手権で2位フィニッシュするなど徐々に好成績を残してきた。

この頃ムートンはラリー以外にも活動した。75年にはムートンを含む女性3人のチームでル・マン24時間に出場、モイネLM75シムカで270周を走破、総合21位、S2.0クラス優勝している。

77年にはスポンサーだったエルフによりポルシェ911カレラRSでラリーに出場。ヨーロッパ選手権(ERC)のラリー・ド・エスパーニャでは優勝を飾った。好成績を残したことでさらに注目を浴び、同年のツール・ド・コルスからはフランス・フィアットからフィアット131アバルトで出場することになる。フィアットでは3シーズンを戦った。そのおかげで78年のモンテカルロには、ランチア・ストラトスで出場し7位フィニッシュ。同年のFIAドライバーズカップでは4位(この年のチャンピオンはマルク・アレン)だった。79年、80年はフランス選手権をメインに出場。

81年アウディからラリーに出場することになった。当初ムートンは、アウディ・クワトロに乗ると聞かされても、何のクルマだか分らなかったという。そしてこの時にコ・ドライバーもファブリツィア・ポンスに変わった。ムートンのアウディでの第1戦となるモンテカルロでは燃料タンクに砂を入れられリタイア。2戦目のポルトガルでは4位。フランス国内ラリーのクリテリウム・ド・ガリゲスでは優勝を飾った。ツール・ド・コルス、アクロポリスとトラブルでリタイア。1000湖ラリーでは13位でフィニッシュ。

迎えたWRCサンレモラリーではフィアット、タルボ、日産、フォード、オペル、ポルシェ、そしてアウディがワークスチームを送り込んだ。マニュファクチャーズ選手権はタルボと日産が争い、ドライバーズ選手権はギ・フレクラン、アリ・バタネン、マルク・アレンが争っていた。WRCも終盤に向けて各チームが神経を尖らせていた。スタートしたサンレモラリーではアウディチームにトラブルが襲う。エース、ハンヌ・ミッコラのマシンが不調に見舞われ低迷、途中首位に立ったミケーレ・チノットはリタイア。その中で中盤から首位に立ったムートンは、バタネンやヘンリ・トイボネンの追撃を振り切り初優勝した。

ムートンは翌82年のWRCにポルトガル、アクロポリス、ブラジルで勝利したがオペルのバルター・ロールに及ばずシリーズ2位に。84、85年はWRCやERC、英国選手権に出場した。86年からはプジョーに移籍し205T16 E2でWRCとERCに出場したが、ヘンリ・トイボネンがツール・ド・コルスで事故死したことを契機に現役引退を決意した。

スウェディッシュラリーでドリフトを見せるムートン。この時は北欧勢の中で4位フィニッシュ

当時ムートンは「ラリーは様々な職業の人たちが集まっているスポーツで、とても興味深いし刺激を受ける。もし私が明日モータースポーツを辞めるとしたら、それは私が次にやるべきことを見つけたから。あれもこれもやらなきゃ、なんてことはないの」と自身の将来を語っていた。

引退後はモータースポーツのカテゴリーを超えたレーシングドライバーが集まる「レース・オブ・チャンピオンズ」を主催している。

引退後は1988年からレース・オブ・チャンピオンズを主催。2009年には北京大会を開催(写真右端)。総合優勝はマチアス・エクストローム、2位はミカエル・シューマッハー
北京大会では久しぶりにアウディ・クワトロスポーツE2をデモンストレーションした

2010年ムートンは2010年にFIAの「ウーマン&モータースポーツ委員会」の初代委員長に就任した。2011年には将来のラリーを検討するワーキンググループの座長に就任、また世界ラリー選手権でFIAのマネージャーに任命された。また、ラリーのホール・オブ・フェームの指名委員会にも参加し、2012年には、2度の世界チャンピオンであるカルロス・サインツとともに殿堂入りした。

2011年、ムートンはフランスのサルコジ大統領からレギオン・ド・ヌール勲章を授与された。

WRCではFIAの派遣委員としてコースの安全をチェックしている

ミシェル・ムートン WRC勝利の記録

回数イベント名コ・ドライバーマシン
11981サンレモラリーファブリツィア・ポンスアウディ・クワトロ
21982ポルトガルラリーファブリツィア・ポンスアウディ・クワトロ
31982アクロポリスラリーファブリツィア・ポンスアウディ・クワトロ
41982ブラジルラリーファブリツィア・ポンスアウディ・クワトロ

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