バルター・ロールは1947年にドイツ・バイエルン州レーゲンスブルク出身。彼は12歳でババリア地方のジュニアチャンピオンになるほどスキーの才能に優れていた。しかし大回転の競技中に転倒し両足を骨折、選手の道を絶たれてしまった。それでもプロのスキーコーチになろうとしていたロールに、普段からスキー場への往復で一緒だった友人のヘルベルト・マルチェクから「クルマの運転が好きならラリーに出てみたら?」とアドバイスされたという。
1968年のババリアラリーにマルチェクのフィアット850で出場するもエンジントラブルでリタイア。しかしロールはラリーに興味を持ち、翌年も出場。今度はBMW2002で出場。コドライバーは再びマルチェクだった。ロールはウイナーを10秒近くまで追い上げたものの、途中で部品を交換したとのクレームが出たためリタイアしてしまう。70年のババリアラリーには中古のポルシェ911Sで出場。このラリーもリタイアしてしまったが、最初の5SSでは2位に30秒の差をつけてトップを走っていた。この速さでロールの名は知られるようになり、71年にはドイツ・フォードのラリープランに抜擢された。このプランは発売されたばかりのフォード・カプリ2600を使ってラリーに出場するもので、新人のロールは2度の優勝を得て、71年のドイツ選手権ではシリーズ3位に。この年のドイツチャンピオンは後にマツダ・ラリーチーム・ヨーロッパの監督となるアキム・バルンボルトで、BMWワークスの2002Tiで出場していた。
72年にはフォードがレース活動を中心にしたため、ロールはラリーに3戦出ただけだった。このフォードの方針変更から、ロールはラリー活動に意欲を持っていたオペルへの移籍を決める。73年にはオペル・コモドール、アスコナでドイツ選手権、ヨーロッパ選手権に出場し5勝を挙げた。そして翌74年にはオペルにヨーロッパ選手権チャンピオンのタイトルをもたらした。さらに出場したRACラリーでも総合5位でフィニッシュ。ロールの名前はヨーロッパのみならず、WRCでも知られるようになった。
当時のラリードライバーは、イベントごとのスポット契約による出場が一般的だったが、ロールはラリーカーの開発とイベント出場を含めた年間契約だったため、他のラリーカーに乗ることもなかった。当時のインタビューで「フォードからオペルに移ったのは、フォードがラリー活動を縮小したから。私はオペルの親会社であるゼネラルモータースとの契約だったんだ。年間契約だとエンジニアやメカニックとの関係も良好になるし都合がよかった」。オペルについても「乗りやすいのはアスコナ。頑丈なせいでコントロールしやすい。カデットは小さいから神経質なところがある」と語っていた。ロールとオペルとの契約は77年まで続いた。
77年末には数戦、フィアット131アバルトでWRCに参戦したロールはフィアットに移籍、80年までフィアット/ランチアに乗ることになり数々のイベントで優勝を飾った。そして80年には自身初のWRCドライバーズチャンピオンを獲得した。ドイツ人として初のWRCチャンピオンだった。
その頃インタビューで「もし自由にチームを選べるならポルシェでラリーに出たい。ポルシェはドライビングが難しいから、ポルシェに乗るドライバーにふさわしいかどうかだけれどね」。その希望が叶ったのは81年。ヨーロッパ選手権とWRCにポルシェ924カレラと911SCで出場することができた。
しかし速くてマシン開発のできるドライバーは引く手あまただった。82年には再びオペルでラリーに出場。早速モンテカルロラリーでは、オペル・アスコナ400で80年(フィアット131アバルト)に続いて2度目のモンテカルロ優勝を飾った。この後ロールは83年にはランチアラリーで、84年はアウディ・クワトロと4度のモンテカルロ優勝をそれぞれ別なラリーカーで制するという記録を達成した。82年はモンテカルロの優勝と、コート・ジボアールの優勝を始めとして好成績を重ね2度目のWRCチャンピオンを獲得した。
83年には再びランチアでWRCに出場したがモンテカルロ、ポルトガル、ニュージーランドで優勝しドライバーズチャンピオンが見えてきたにもかかわらず、ランチアがサンレモでマニュファクチャラーズタイトルを獲得した途端にラリー活動を縮小したため、チャンピオンを獲得できなかった。
ランチアに限界を感じていたロールは84年をアウディから出場することに決めた。それはアウディがターボ4WDラリーカーのクワトロを持っていたからだ。WRCにマシン革命をもたらしたアウディ・クワトロをドライブしたロールは、ドライバーズチャンピオンこそ獲れなかったものの、84年にアウディがマニュファクチャラーズタイトル獲得することに貢献した。その後87年までアウディでWRCに出場し現役を引退した。WRC通算14勝を挙げている。
1993年からはポルシェと開発ドライバー&アンバサダーとして契約し、マシンの開発にも携わりつつイベントにも出場している。
年 | イベント名 | コ・ドライバー | マシン |
1975 | アクロポリスラリー | ヨッヘン・ベルガー | オペル・アスコナ1.9SR |
1978 | アクロポリスラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | フィアット131アバルト |
1978 | ケベックラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | フィアット131アバルト |
1980 | モンテカルロラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | フィアット131アバルト |
1980 | ポルトガルラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | フィアット131アバルト |
1980 | コダスールラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | フィアット131アバルト |
1980 | サンレモラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | フィアット131アバルト |
1982 | モンテカルロラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | オペル・アスコナ400 |
1982 | アイボリーコーストラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | オペル・アスコナ400 |
1983 | モンテカルロラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | ランチア037ラリー |
1983 | アクロポリスラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | ランチア037ラリー |
1983 | ニュージーランドラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | ランチア037ラリー |
1984 | モンテカルロラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | アウディ・クワトロA2 |
1985 | サンレモラリー | クリスチャン・ゲイストドルファー | アウディ・クワトロスポーツE2 |