日産自動車は1962年、国産本格的スポーツカー「ダットサン・フェアレディ」を発表。以降毎年改良を加え、国内レースや海外ラリーに出場してスポーツカーとしての実績を積み重ねてきた。なかでもポルシェ904が1965年モンテカルロラリーで2位に入賞すると、ラリーカーはツーリングカーベースから、GTで出場し好成績を得てブランドを高めようということが欧州メーカーのトレンドとなった。ポルシェ以外にも、アルピーヌルノーやランチアがラリー用にスポーツカーを用意した。日産も68年にSR型ダットサン・フェアレディ2000でモンテカルロラリーに出場。この真冬のモンテカルロラリー出場で得た寒冷地高速ラリーカーの開発は、リミテッドスリップデフ(LSD)やディスクブレーキ、舗装ラリー用サスペンション、熱戦入りフロントガラス、スパイクタイヤなど、その後のラリーカー開発に反映できた。
69年にフェアレディZ(S30型)が発表されると、510ブルーバードに続く日産の次期ラリーカーに選ばれた。新型フェアレディZは、モノコックボディに4輪ストラット式サスペンションを採用。ラリーカーにはその中でも排気量2400㏄のL24エンジンを搭載した240Zがあてられた。
L24型エンジンにはソレックスツインキャブレターを3基、ミッションは直結5速、デフはR180型を搭載した。エンジンにL24が選ばれたのには、サファリラリーでも優勝実績のある510ブルーバードに搭載されたL16型とボア×ストロークが同じだったからだ。L24はL16に2気筒加えたものだったので、チューニングにはL16で得たノウハウを生かすことができた。
70年1月には、モンテカルロラリー出場を目的とした事前テストを行ない上々の結果が得られた。ドライバーに抜擢されたのはトップドライバーのラウノ・アルトーネン。その後240Zは日本国内の耐久レースに出場し、L24エンジンのチューニングのノウハウを重ねた。
ラリーデビューは70年秋に開催されたイギリスのRACラリー(現ラリーGB)。ドライバーはラリーカーの開発を担当していたR.アルトーネン、トニー・フォール、エドガー・ハーマンのワークスチームと、プライベーターのジョン・ブロックシャムの4台が出場。当時もRACラリーは世界各国のラリーチーム、ドライバーが集まるオールスターラリーとして知られており、フォードを始め、BMC、ポルシェ、オペル、ランチア、アルピーヌルノー、サーブと実力のあるチームがそれぞれトップドライバーを擁して集結した。そのなかでアルトーネンの240Zは7位フィニッシュ。6位にはポルシェワークスのジェラール・ラルース、5位にはアルピーヌルノーを駆るアンドリュー・コーワンがいた。
迎えた71年モンテカルロの日産チームはアルトーネン、フォールがワークスとして、南アのエドワルド・バン・バーゲンがプライベートとして240Zで出場した。WRC制定前の国際ラリーマニュファクチャラーズ選手権のシーズン開幕イベントとなるモンテカルロラリーには、アルピーヌルノー、ポルシェ、ランチア、BMW、フィアット、アルファロメオ、オペルが名を連ね、ドライバーには後年WRCを始めとする世界のモータースポーツの重鎮となるドライバーが名を連ねた。
氷雪のターマック(舗装)路面のモンテカルロラリーは、スパイクタイヤの選択が重要だった。日本ダンロップと開発したタイヤも奏功し、大雪に見舞われたモンテカルロでは総合5位にアルトーネンと10位にフォールがフィニッシュ。アルピーヌルノーA110(6台)とポルシェ914/6(3台)がトップ争いを繰り広げる中に割り込み、日産はヨーロッパメーカーにとり要注意のチームとなった。
翌72年も同様の体制で出場、アルピーヌ勢が崩れる中、アルトーネンは総合3位でフィニッシュした。この年アルトーネンのコ・ドライバーはジャン・トッドだった。このマシンは現在も日産に保存されている。
ブルーバードで優勝を記録していたサファリラリーでも、240Zはその性能を発揮した。71年サファリラリーに日産はE.ハーマン、R.アルトーネン、シェカー・メタに3台のマシンを用意。サファリで実績のある日産はプライベートチームにも人気が高く、前年までの優勝マシンである510ブルーバード35台を含め参加113台中、日産車は41台が出場していた。
ライバルはプジョー504、ポルシェ911、フォード・エスコート、サーブ99。カーブレーカーラリーと呼ばれるサファリラリーは、耐久性も必要だがトップスピードも必要とされる高速ステージも多いため、高馬力も要求された。その要求にこたえるため240ZのL24エンジンは、200馬力にチューニングされたものが搭載されていた。このエンジンは毎年段階的にパワーアップされ、73年RACラリーには250馬力に達した。
序盤はビヨン・ワルデガルドのポルシェがリードするが、240Zがポルシェに僅差で迫っていた。ワルデガルドはプレッシャーに負けたのかコースアウトでリタイア。難なくハーマンの240Zがトップに立ちそのまま優勝。メタ2位、アルトーネンが7位でフィニッシュしたため240Zは初出場で、総合優勝とチーム優勝を日産にもたらした。
翌72年はフォードがエスコートで優勝する。フォードはサファリでの優勝を確実のものとするために、3台のセスナでラリー中のルートを監視、100名以上のスタッフに数十台のサービスカーを用意し、ティモ・マキネン、ハンヌ・ミッコラ、ジョギンダ・シン、ビック・プレストンジュニアらエスコートRSラリーカーを用意しラリーに臨んだという。
総合優勝とチーム優勝をフォードに奪われた日産だが5、6位にハーマンとアルトーネンが入賞。この年は例年以上にハイスピードになったため、240Zにはタイヤトラブルと高速走行によるマシントラブルが発生、優勝を逃す結果となった。
73年サファリに日産は3台の240Zと2台のブルーバードU1800(610)を用意した。ライバルはフォード・エスコート、プジョー504。そしてプライベートエントリーで、ジョギンダ・シンが三菱コルトギャランを持ち込んだ。
ラリーは前年同様フォード・エスコートが優勢とみられていたが、トラブルが続出し後退。日産勢もリタイアが続出したものの、メタの240Zが優勝。ブルーバードUを駆ったハリ・カルストロームが2位に入る健闘をみせた。4位にもフォールのブルーバードUが入ったので、日産は総合優勝とチーム優勝を獲得。そのほか3クラスでクラス優勝を得た。
240Zは74年まで出場し、その後の日産ラリー活動はブルーバード(610)、バイオレット(710)と引き継がれた。
最近ではラリー・モンテカルロ・ヒストリックを始めとしたヒストリックカーラリーイベントが世界各地で盛況となっており、その出場車両の一台として人気も高い。
年 | イベント名 | ドライバー | コ・ドライバー | 結果 |
1970 | RACラリー | R.アルトーネン | P.イースター | 10位 |
1971 | モンテカルロラリー | R.アルトーネン | P.イースター | 5位 |
1971 | モンテカルロラリー | T.フォール | M.ウッド | 10位 |
1971 | サファリラリー | E.ハーマン | H.シュラー | 優勝 |
1971 | サファリラリー | S.メタ | M.ダゥティ | 2位 |
1971 | サファリラリー | R.アルトーネン | P.イースター | 7位 |
1971 | RACラリー | S.メタ | L.ドリューズ | 19位 |
1972 | モンテカルロラリー | R.アルトーネン | J.トッド | 3位 |
1972 | サファリラリー | E.ハーマン | H.シュラー | 5位 |
1972 | サファリラリー | R.アルトーネン | T.フォール | 6位 |
1972 | サファリラリー | S.メタ | M.ダゥティ | 10位 |
1972 | アクロポリスラリー | S.メタ | P.イースター | 2位 |
1972 | プレス・オン・リガードレス | T.ジョーンズ | R.ベックマン | 2位 |
1972 | RACラリー | R.アルトーネン | P.イースター | 11位 |
1972 | RACラリー | T.フォール | M.ウッド | 18位 |
1973 | モンテカルロラリー(WRC) | T.フォール | M.ウッド | 9位 |
1973 | モンテカルロラリー(WRC) | R.アルトーネン | P.イースター | 18位 |
1973 | サファリラリー(WRC) | S.メタ | L.ドリューズ | 優勝 |
1973 | RACラリー(WRC) | H.カルストローム | C.ビルスタム | 14位 |
1974 | ポルトガルラリー(WRC) | H.カルストローム | C.ビルスタム | 4位 |
1974 | サファリラリー(WRC) | H.カルストローム | C.ビルスタム | 5位 |