1981年、タルボ・サンビームロータスでWRCに出場してタルボのマニュファクチャラーズタイトル獲得に貢献したジャン・トッドはコ・ドライバーを引退し、新設されたプジョー・タルボスポーツのディレクターに就任した。トッドは就任後すぐに、来るべきグループB時代に備えたラリーカーの開発に取り掛かった。それはM24ラリーと呼ばれたプロジェクトだった。81年のWRCにはターボ4WDのラリーカー、アウディ・クワトロが出場し、オールマィティの活躍を見せた。将来のWRCにおけるラリーカーの方向性を示したマシンだった。
ラリーカーの存在意義は、市販車と共通するアイデンティティを持つことだ。新型マシンも205のイメージを持ちながら、4WD機構と、ターボエンジンを搭載したマシンとして計画された。そしてアウディ・クワトロとは異なり、理想的な性能を引き出せるミッドシップレイアウトを採用した。1983年に発表されたプジョー205は、FF 2BOXのコンパクトカー、そのイメージをトップカテゴリーのマシンに投影したのだ。グループBの車両公認台数は200台の生産が必要で、プジョーは、ミッドシップにターボエンジンを搭載した4WDの市販車を販売した。205T16に搭載された1.8ℓDOHCエンジンは、当時のターボ係数1.4を掛けると排気量が2500㏄以下になるため、最低重量が900㎏まで下げられたからだった。
84年のツール・ド・コルスが205T(ターボ)16のデビュー戦となった。すでにシーズン初めよりWRCに出場しているランチア037、アウディ・クワトロ、ルノー5ターボ、オペル・アスコナの中で、205T16がどんなパフォーマンスを見せるか注目が集まった。プジョーのドライバーは81年のWRCチャンピオン、アリ・バタネンとジャン-ピエール・二コラ。ラリーを序盤リードしたのはランチアのマルク・アレンだったが、トラブルで後退。代わってトップに立ったのはバタネンがドライブする205T16。ラリー中にステージが降雨に見舞われるとプジョーのリードは広がった。
ミッドシップターボ4WDラリーカーは革新的すぎると思われていたが、その心配も払しょくされた。SS20でバタネンはコースアウトしリタイア、ニコラが4位に入ってデビュー戦は終えた。続くアクロポリスではエンジントラブル、ドライブシャフトトラブルで2台ともリタイアしたが、リタイアするまでのスピードには目を見張るものがあった。ドライバーのラインナップにあった205T16の初優勝は1000湖ラリーだった。バタネンは51あるSSのうち31を制する圧勝だった。また、プジョーが採用した前後のトルク配分を替えられる4WD、トルクスプリットシステムの優秀性も証明された。バタネンはその後、サンレモとRACに優勝。84年のマニュファクチャラーズタイトルとドライバーズチャンピオンは、アウディとスティグ・ブロンクビストが獲得したが、WRCの潮流は大きく流れが変わった。
85年開幕戦モンテカルロ、続くスウェーデンでもバタネンが優勝。ポルトガルはチームメイトのティモ・サロネンが優勝した。サファリとツール・ド・コルスはとりこぼしたものの、アクロポリスから1000湖までサロネンが4連勝を飾ると、プジョーがマニュファクチャラーズタイトルを獲得、サロネンも5勝を挙げてドライバーチャンピオンを獲得した。この年ツール・ド・コルスでは、エボリューションモデルE2がデビューした。エンジン出力も350馬力から450馬力へ向上。またサンレモではパワーステアリングを採用。しかしライバルのランチアもRACで037に代わるデルタS4をデビューさせ、優勝。86年はプジョーとランチアの戦いがより激しくなると予想された。なお、アルゼンチンでバタネンが大クラッシュ、重傷のため現役復帰まで1年半かかってしまった。
86年プジョーvsランチアの戦いでチームの救世主となったのは、トヨタから移籍したユハ・カンクネンだった。スウェーデン、アクロポリス、ニュージーランドで優勝。1000湖ではサロネンが優勝し迎えたランチアの地元イタリアのサンレモラリー。ランチアとプジョーがトップ争いをする中、突然205T16 E2に失格が言い渡される。主催者からサイドスカートが公認を受けない空力不可物として認定されたからだ。その結果サンレモはランチアのマルク・アレンが勝利、アレンは最終戦オリンパスラリーでも優勝すると、選手権ポイントも最高点を獲得しタイトルを獲得したかに見えたが、FIAから「サンレモのプジョーへの判定は無効」として参加全チームのポイントもノーカウントとなったため、アレンのチャンピオンは霧消した。代わってタイトルを獲得したのがカンクネンだった。
ツール・ド・コルスで発生した事故により、WRCは86年でグループBの出場を止めることが決まっていたため205T16 E2の活躍の場はラリーレイドに移った。87年のパリ~ダカールラリーにバタネン、シェッカー・メタが出場しバタネンが205T16GR(グランレイド)が優勝。続いて同年のパイクスピーク・ヒルクライムにバタネンが出場するも、バルター・ロールのアウディ・クワトロS1に敗れた。
以後プジョーがWRCに帰ってくるのは、1995年のF2キットカー306マキシまで待つしかなかった。
年 | イベント名 | ドライバー | コ・ドライバー | マシン |
1984 | 1000湖ラリー | A.バタネン | T.ハリマン | プジョー205T16 |
1984 | サンレモラリー | A.バタネン | T.ハリマン | プジョー205T16 |
1984 | RACラリー | A.バタネン | T.ハリマン | プジョー205T16 |
1985 | モンテカルロラリー | A.バタネン | T.ハリマン | プジョー205T16 |
1985 | スウェデイッシュラリー | A.バタネン | T.ハリマン | プジョー205T16 |
1985 | ポルトガルラリー | T.サロネン | S.ハルヤンネ | プジョー205T16 |
1985 | アクロポリスラリー | T.サロネン | S.ハルヤンネ | プジョー205T16 E2 |
1985 | ニュージーランドラリー | T.サロネン | S.ハルヤンネ | プジョー205T16 E2 |
1985 | アルゼンチンラリー | T.サロネン | S.ハルヤンネ | プジョー205T16 E2 |
1985 | 1000湖ラリー | T.サロネン | S.ハルヤンネ | プジョー205T16 E2 |
1986 | スウェデイッシュラリー | J.カンクネン | J.ピロネン | プジョー205T16 E2 |
1986 | ツール・ド・コルス | B.サビー | J-F.ファシー | プジョー205T16 E2 |
1986 | アクロポリスラリー | J.カンクネン | J.ピロネン | プジョー205T16 E2 |
1986 | ニュージーランドラリー | J.カンクネン | J.ピロネン | プジョー205T16 E2 |
1986 | 1000湖ラリー | T.サロネン | S.ハルヤンネ | プジョー205T16 E2 |
1986 | RACラリー | T.サロネン | S.ハルヤンネ | プジョー205T16 E2 |