トヨタのラリー活動を現場で支えた大樹

90年、WRCドライバーズチャンピオンとなったC.サインツと。グループA時代になってトヨタも世界の頂点を掴むことができた

オベ・アンダーソンは1938年1月、スウェーデン・ウプサラ出身。アンダーソンは、彼の父が持っていたオートバイからスピードに興味を持った。地元で工学を学んだ後、自動車修理工場で働き始める。スウェーデン軍で兵役に就いた後、62年にサーブでラリーに出場。63年からスウェーデンBMCのワークスチームからミニでラリーに参戦。翌64年にはサーブファクトリーに抜擢されスウェーデン国内選手権に出場しシリーズ5位に。この年のチャンピオンはハリ・カルストローム、ビヨン・ワルデガルドらがいた。

65年もサーブワークスでサーブ96スポーツで国内選手権、ヨーロッパラリー選手権(ERC)に出場。66年からはランチアからフルビアでERCに出場。当時はまだWRCが存在していないので、ラリーに参加しているメーカーにとってERCは重要なシリーズだった。68年からはフォードと契約し70年中盤までフォード・コルチナでERCを中心に活躍。アンダーソンが大きく注目されたのがアルピーヌルノーと契約をした時からだった。71年国際マニュファクチャラーズ選手権(IMC)の開幕戦モンテカルロラリーで優勝、以降サンレモ、オーストリア・アルペン、アクロポリスで優勝しアルピーヌルノーのタイトル獲得に大きく貢献した。

72年の交渉を経て73年からはトヨタと契約、トヨタ・セリカとカローラレビンを使ってトヨタのラリー活動がヨーロッパを中心にスタートした。当時トヨタと契約したことを後に「当時のラリー参戦していたドライバーはスポット契約がほとんどで、私もいつピリオドを打ってもおかしくはなかった。でもラリーの世界にはいたかった。そんな時にトヨタから声がかかったんだ。でもドライバー兼マネージャーの仕事は大変で、長続きしそうにないと思ったよ」と語っていた。

1972年RACラリーには日本で製作されたセリカ1600GTで出場し総合9位、グループ2/2クラス優勝を得た

アンダーソンはグループ2の日産ブルーバード(610)で72年のサファリラリーに出場し12位でフィニッシュしている。フォード・エスコートの対抗馬だった

WRCがスタートした73年開幕戦モンテカルロでは、アルピーヌルノーで出場し優勝を飾った

73年にアンダーソンは来日し、浅間サーキットでセリカとカローラのテスト行なった。この浅間のテスト時にアンダーソンは「セリカは1600㏄ではなく2000㏄のエンジンを積んだ方がより性能を発揮できそうだ」と語っていた。

トヨタと契約を結んだ後に来日、浅間テストコースでセリカやカローラのラリーカーをテスト

日本人では舘信秀、見崎清志らが参加していた

72年のRACラリーからトヨタ・セリカ1600GT(TA22)でラリーに出場したアンダーソン、翌73年もポルトガルやアクロポリスなどにセリカで出場を重ねるも、開発途中のセリカはリタイアが続く。9月に開催されたオーストリア・アルペンには9位でフィニッシュできたものの、優勝したBMW 2002とは10分差があり、セリカの改良には課題が残されていた。

しかし、新たなスタートを切ったばかりのアンダーソンとトヨタの行く先に暗雲が立ち込めた。73年秋に始まった第4次中東戦争の影響で、世界は石油供給不足に陥った。いわゆる石油危機が襲ったのだ。その結果、世界経済の停滞にともない世界のモータースポーツ活動も停滞した。イベントで使うモータースポーツ用の燃料も手配しにくくなったのだ。

74年トヨタの社内会議でモータースポーツ活動の休止が決定された。それにともないトヨタ自工でモータースポーツ開発の中心だった第17技術部も解散してしまった。しかし社内会議で「本当にラリー活動を休止してしまった方がいいのか」という意見も出て、アンダーソンがベルギーに設立したばかりの「トヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)」へ、トヨタがヨーロッパに持っていたマシンやパーツ、サービスカーをTTEに提供することを決定しアンダーソンはチーム運営を継続することができた。またこのトヨタのラリー活動継続にはドイツ、イギリス、フィンランド、ポルトガルを始めとした各国ディーラーが支持、運営予算を負担したという。

初期のTTEのラリー活動を支えたのは、アンダーソン自身もドライバーとして参加するかたわら、アンダーソンのスウェーデン人脈であるワルデガルドやハンヌ・ミッコラはドライバーとして、アーネ・ハーツやハンス・トーゼリウスはコドライバーとして参加した。
75年の1000湖ラリー(現ラリー・フィンランド)ではミッコラがカローラレビンをドライブしヨーロッパラウンドで初優勝を飾った。

76年にはカローラからセリカ2000GT(RA20)にマシンをスイッチ、アンダーソンはポルトガルで2位、アクロポリスではリタイアしたがRACラリーでは5位フィニッシュを果たした。このセリカには2ℓ18RGエンジンの16バルブレース用エンジン152Eを、ドイツのチューナーであるシュニッツアーがさらに改良し240馬力を出したという。しかしエンジンパワーこそライバルに追いついたものの、駆動系がそれに対応できなかったと言われている。

カローラレビンTE27で出場した76年RACラリーでラリーカーの横に立つアンダーソン。現在のような大規模サービスではなく、舗装の駐車場でラリーカーのサービスを行なっていた。他チームも同様だった

79年にはセリカと16バルブ18RGエンジンの公認が切れ、TTEは新型セリカ(RA40)と8バルブ18RGエンジンでWRCを戦うことになった。8バルブエンジンはパワーも180馬力に落ちたため、ポルトガルで3位に入るのがやっと、他のヨーロッパのスプリントラリーでは勝ち目がなかった。それでも79年はアンダーソンとTTEにとり記念すべき年となった。ブリュッセルからドイツのケルンへ本拠地を移転したのだ。

セリカに再び16バルブエンジンの公認が得られた80年、アンダーソンはポルトガルとアクロポリスで6位に入賞。そしてアンダーソンはドライバーとしての現役引退を決意し、TTEの運営に専念することを決意した(ラリーは82年のコート・ジボアール出場が最後)。

再び16バルブエンジンを得て出場した80年ポルトガル。ステージを取り巻くギャラリーが多いのは南欧のラリーの風物詩。この年現役を引退しマネージャーに専念することを決意

その後アンダーソン率いるTTEは、グループB時代にはセリカ・ツインカムターボでサファリラリーを84~86年を3連覇することで注目を浴びた。またグループA時代になってからは念願のターボ4WDラリーカーであるセリカGT-FOUR ST165を得て、カルロス・サインツが90年のWRCドライバーチャンピオンを獲得。サインツは92年にもタイトルを獲得。93年にはユハ・カンクネンがドライバーチャンピオンを、TTEは初のマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。この年会社組織はTMGに変更。翌94年にはディディエ・オリオールがドライバーチャンピオンを、TTEはマニュファクチャラーズを連覇した。

ドイツのTTE前でセリカGT FOUR ST165を前に。K-AMのナンバープレートはケルン・アンダーソンモータースポーツの略で、TTEはラリーカー用の登録ナンバーを出すことができた

97年にはカローラWRCでスポット参戦し、98年からは再びWRCにフル参戦。99年にはマニュファクチャラーズタイトルを獲得後、TMGはF1進出を目指して方向転換した。その間アンダーソンは98~99年はル・マン24時間に出場するTMGの代表として采配をふるい、その後アンダーソンはF1の世界に姿を見せることになった。

アンダーソンは2008年6月11日、南アフリカで開催されたヒストリックカーラリーにボルボで出場中、トラックと衝突し亡くなった。享年70。

オベ・アンダーソン 主要ラリー勝利の記録

イベント名 コ・ドライバー マシン
1967 ラリー・ド・エスパーニャ(ERC) ジョン・ダベンポート ランチア・フルビアHF
1971 モンテカルロラリー(IMC) デイビッド・ストーン アルピーヌルノーA110
1971 サンレモラリー(IMC) トニー・ナッシュ アルピーヌルノーA110
1971 オーストリア・アルペンラリー(IMC) アーネ・ハーツ アルピーヌルノーA110
1971 アクロポリスラリー(IMC) アーネ・ハーツ アルピーヌルノーA110
1975 ラリー・ノルドランド(ERC) アーネ・ハーツ トヨタ・カローラレビン
1975 サファリラリー(WRC) アーネ・ハーツ プジョー504

ERC:ヨーロッパラリー選手権
IMC:国際マニュファクチャラーズ選手権

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